NavyTern’s blog

思考の試行。

飛ぶ思考と昔話

久々に文章を書く。

文章を読むことは細々と続けていたけれど、書くのは本当に久しぶりになってしまった。ぼんやりと様々なことを考えてはいたけれど、どれも単なる妄想にさえならないような、霧散した思考であった。

 

最近、ようやく又吉直樹の「火花」を読んだ。

主人公が、「誰かに何かを言われたとき、言葉が無限に広がってしまって、それをまとめるのに時間がかかる。だから早くしゃべることができない。」という旨の発言をするシーンがあるのだけど、「ああ、これは自分のことだ」と思った。

しゃべるのが早い人は、よほど頭の中が整理されているか、反射的に口が動くだけで何も考えていないかのどちらかだと思う。そして、しゃべるのが遅い人はよほど頭の中が空っぽで、発する言葉を持たない人か、上記の言葉が溢れてしまう人かのどちらかなのかもしれない。

どちらが良いとか悪いとかの話ではなくて、「状態の差」の話だ。

僕は内容を問われないのならば、三日くらい文章を書き続ける自信がある。とりとめもなく次から次へと思考が飛ぶからだ。

例えば、いま目の前にコップがある。これは琉球ガラスでできたコップだ。光を透かすととても綺麗で、どことなく海の色に見える。ところで、どうして琉球ガラスという文化が生まれたのだろうか。誰がどこから持ち込んだものなのだろうか。琉球は公式・非公式を含めて外交貿易が盛んだった土地のはずだ。中国や東南アジアか。西洋の大航海時代はインド経由で日本に来ていたから、ヨーロッパからも来ていたかもしれない。でも中国は陶器が有名じゃなかったか。ガラス?ガラスはどこから来たんだ?

大体1分でこれくらいの分量を考える。そして余裕があれば、「ガラス 日本 渡来」と検索エンジンに入力し始めるだろう。

誰かと会話をしているときも思考は飛んでいる。

早く返さなきゃと思うと、考えをまとめることに集中できなくて余計に時間がかかってしまう。だから僕は大勢で行く飲み会が好きではない。会話の内容があっちこっちに飛ぶから、思考をまとめきれなくて、追いつかなくなる。最終的に会話を聞き流しながら、他のことを観察しながら考えていたりする。イメージで表現するならば、それこそ花火のような感じで思考は広がる。思考は言葉と言い換えてもいいかもしれない。ひとつの物事から、直線的ではなく放射状に広がっていく。それが僕の場合の「状態」である。

 

「火花」の前は柳田国男の本を読んでいた。日本の伝承や神話、民間信仰に近いような昔話を集めたものだ。上橋菜穂子文化人類学的なものの見方を踏まえて、日本各地に伝わる昔話を考えるのはとても楽しい。

たいていの昔話には妖怪やおばけ、お地蔵さんとか仏さまなど「超常現象」のような、人間に近いけれど異なる存在が登場する。呪いやまじないの類も含まれる。その点がフィクションとしての昔話に華を添え、子供でも覚えやすく、語り継ぐという形態を考慮すると実に合理的な作りをしている。

 

でも、本当はどうだったのだろう。

どうしてそのようなフィクションが生まれなければならなかったのだろう。

 

浦島太郎を例に仮説を考えてみた。

まず、名前が特徴的である。浦島というのは、裏と島だ。島の裏、つまり表には出て来られない身分の者を意味するのではないか。そして海沿いが生活圏であること(都ではないということ)も身分を表している。太郎は俗に男の子や男性を表す通称である。身分がさほど高くない男。これが主人公・浦島太郎である。

次に、浜でいじめられている亀。

浦島太郎を背に乗せて泳げるほど大きな亀だ。きっと海亀だろう。しかしどちらかと言うと北に位置する日本のそこここで、海亀が見つかるとは考えにくい。つまり海亀の話は日本では共有されにくいのではないか。

では亀とは何だ。亀は海から来る存在だ。しかもいじめられる。なぜいじめられるのか。その土地の者たちと異質だから排除されようとしていたのではないか。いじめの心理は、恐怖と排除だ。もしも、亀が人間だったら?きっと外国人だ。背も高い。浜にいたということは、漂流者だったのかもしれない。

 

亀は助けてくれた浦島太郎を竜宮城へ連れていく。村に帰った浦島太郎がおみやげにもらった玉手箱を開けると、急におじいさんになってしまう。

 

身分の低い男が漂流者である外国人を助けたとして、外国人がお礼をしたいとする。どこでするか。自分の国でするのではないだろうか。浦島太郎は今で言う留学をしたのではないか。歓迎の踊りやご馳走を楽しんで、帰国に至ったのだ。

浦島太郎が住んでいた村の人々からすれば、「急に浦島太郎がいなくなった!外国人に連れ去られてしまったのかもしれない…」となっている。

玉手箱は時間経過の象徴だ。時間の流れを忘れるほど浦島太郎は留学を楽しみ、村人たちは帰ってきた浦島太郎がずいぶん老けたように見えたのかもしれない。漂流者である外国人がある国の官僚クラスの人間であるなら、乙姫(=王女?)の説明もつく。

 

つまり浦島太郎の昔話はこうだ。

ある身分の低い男が、何らかの理由で日本に漂着した外国の官僚を助ける。官僚は礼をするために男を自国へと招待した。事情を聞いた王女は男を歓待する。もてなされるのは楽しく、あっという間に時間が過ぎた。頃合いを見て村に帰ってみると、誰も自分のことを覚えていないほど時間が経過していた。

 

現実に即して考えた場合、これが仮説になる。なんの面白みもない事実だけでは後世に話が続かなかったのかもしれない。フィクションを交えることで、子供でも理解しやすく、永く話を残すことができる。

 

もちろん、これはただの妄想に過ぎないけれど、当時の人々の意図がどこにあったのかを慮れば、近からず遠からずなのではないかとも思う。

 

浦島太郎の視点、亀の視点、乙姫の視点、村人の視点、「浦島太郎物語」を作った者の視点、その話を引き継いだ者の視点。色んな視点を飛びながら考察することで、一つの事実が浮かび上がってくる。そういう作業がとても楽しいのだ。

 

物事には必ず理由がある。

「不思議な事」というのは、ただこちらに理解する力がないだけの話だ。