NavyTern’s blog

思考の試行。

意識高い系になり損ねた話

「とうとう」というか「まんまと」というか、僕は社会人5年目を迎えた。

異端児と言われて半年、僕は再びの異動を命ぜられた。

異動した先は、入社1,2年目の頃に行きたいと言っていた部署で、学生の頃の経験がもろに活用できる仕事内容だった。

 

恐らく、端から見ればこれは出世コースなのかもしれない。周りはとんでもなく優秀な人たちが集まっている。僕は競争に放り込まれたのかもしれない。そしてこの状況は、本当は喜ぶべき状況で、なりふり構わず努力を重ねて高みへ上るべきなのかもしれない。以前の自分ならば、何の迷いもなくそうしたかもしれない。ただ、なぜかぼんやりと虚しさを感じている。どうしてなんだろう。

 

「お前が今感じてるのは、贅沢な悩みだよ」と先日友に言われた。確かにそうだと思う。自分はこのままでいいのだろうか、もっと苦しまなくていいのだろうか。「そんなことをする必要はない」とその友は言い捨てた。いい友だと思う。

 

学生の頃、僕はいわゆる「意識高い系」に憧れていた。

レベルの高い大学に行って、そういう人材ばかりが集まっている大企業に入って、世界を駆け回りながら仕事をして、外資の企業に転職したりして、華やかな人生を送る。着ているものも、食べるものも、付き合う人間も皆一流で、誰がどう見ても「勝ち組」と言われる人々。浮き沈みが激しい波乱万丈な人生や、そういう世界に憧れていた。

 

しかし、それは過去形になってしまった。

夢半ばで諦めただけだろ、小さくまとまろうとしてるだけだろと言われれば、それは否定できないと思う。でもただ、「違うな」と気付いただけなのだ。誰かに羨んでもらえる人間になれば、それは一時、とても心地よいかもしれない。でもそこに僕の目的は存在していないように思えたのだ。僕が本当に欲しているものは「羨望」ではなく、「納得」だ。

 

華やかな人生を想像したとき、「これは誰の人生なんだろう」と思った。「これこそ自分の人生だ」と現実味をもって考えられなかった。遠いどこかの誰かの話にしか思えなかった。

 

俯瞰した見方をすれば、「社会に打ち負かされた」と表現される考え方かもしれない。学生の頃の自分が聞いたら情けないなと思うだろうし、きっと「納得」してくれないのだと思う。僕は少しおじさんに近づいたのかもしれない。人生は割と自由に決められて、いろんなことができる。誰もが羨んでくれるような人生でないとしても、選択肢は無数にある。そういうことを知った。いや、学んだのだ。

 

僕は自分で言うのも変だけど、かなりめんどくさい人間だと思う。

いちいち物事の意味を考えてしまうし、慎重に後悔しない選択肢を取ろうとする。そしてやりたくないことに対して全力で頑張ることをしない。というかできない。好きなことしか頑張れない。ごめんなさい。その割に与えられたことはきっちりこなし、決まりをよく守ろうとする。太陽か月かで言えば月で、社長か副社長で言えば副社長タイプだ。

 

なんだかんだ、うんうんと考え事をしたり、文章を書くのが好きで、褒められれば嬉しいし、貶されるとむかつく。そういう自分を、浅はかだなぁと思う。でも、このままで生きていこう、このままでいいのだと、最近になってようやく思えるようなった。憧れの誰かにならなくていいのだと思えるようになった。そういう自分を認めてくれる人ができて、余計なものが剝がれていった。周りに「お前は変だ」と言われることもあるけれど、自分のことを「普通だ」と本気で信じている人間よりは、幾分マシだと思うのだ。

 

僕はずいぶん変わったと思う。数少ない周りの人間もそう感じていると思う。

そのなかで未だに変わらない部分があって、たぶんそこが僕の本性なんだろう。ああまた、ずいぶんとまとまりのない文章を書いている。だらしないなぁ。

 

「納得」が目的だと書いたけど、色んなことを「まぁいいか」と考えるようになった。姿勢としては確実にゆるくなった。たぶん、自分がそうやって生きることに「納得」したからなのだと思う。

 

ままに生きる。

意識は低いが、ぶれることもなく、白む春の霞に目を細めながら、まんまと生きていく。