NavyTern’s blog

思考の試行。

美しいもの

衝動的に何かを書きたいと思う。

きっと、昨日読み終わった「細雪」の影響なのだ。

 

年末年始にテレビで見たドナルド・キーンのドキュメンタリー。その中で彼は「谷崎先生は本当に美しい日本語を書かれます」とコメントしていた。

 

美しい日本語とはどんなものなのだろう。美しいものは見てみたい。3月くらいから、ゆっくりゆっくりと読んできた細雪。昨日やっと終わったのだ。

 

確かに美しい日本語であった。古語のような言い回しや古来親しまれる日本の情景、現代ではもう失われてしまった時間の流れ方、格式のある家でのしきたりや生きにくさ。ストーリー自体はなんてことはないものだけど、耽美的な気分にさせてくれる。「上物」という風であった。

 

美しいもの。

想像で思い浮かぶ、最も美しいものは桜である。

例えば、吉野の山桜のように野生の桜があるとする。決して人目に触れない山奥の片隅に、一本だけそこに生えている桜があるとする。その桜を目にしたことがあるのは通りかかった鹿や、香りに誘われた虫、そして周りの草木だけ。誰の目にも触れぬまま、自然の法則に従い年を経ていく。咲き、散り、芽吹き、実り、枯れ、蕾を抱く。誰も美しいと褒め称えはしないけれど、そんな桜があったとしたら、きっとそれは至上の美しさであると思う。

 

学生のころ、「小説中で、美人の描写はいつも目だけが描かれる」と習った。

それは、「目」が持つ意味に適い、また描写が多くなればなるほどその対象は化け物じみていくという法則があるからだった。「柳眉」という言葉がまさにそれを表している。

 

「目」だけを描き、あとは読者の想像に任せることで、誰もが美人を想定するのだからすごい。美しいとは想像を伴うものなのかもしれない。

 

美しいものが好きだ。たくさんの美しいものを見てから死にたいと思う。

美しいとはどういうことなのか、まだまだ自分の感性が鈍い。

小さな自分

何を探しているんだろう。何を夢見ているんだろう。確固とした、何かこう、今までよりどころとしていたものが、靄のように空気に溶けて消えてしまったような、そんな気分でいる。

 

目の前に起きることは、なんとかやりすごしてきたはずだ。上手ではないにしろ、問題がないラインで片づけてきた。信じられないようなことを平気で口走る人間にぶち当たっても、なんとか自分をコントロールしてきた。他人の人生などどうでもよい、自分だけが良ければそれでよいのだと嘯いて、自分で課題を設定し、よそ見をしないように、余計なノイズが入らないようにイヤホンを耳いっぱいに詰めた。

 

でも、自分は何も変えられていない。何一つ自分の力で変えられたものはないじゃないか。自分以外のものに左右されて、形ばかり整えようとして、そして、その事実からいつも目を背けている。

 

昔はまっすぐに走れたのだ。そうだ、スタートラインに立った時の高揚感。背中にジワリと感じる汗。トラックからは陽炎が立ち昇り、容赦ない日差しが頬を焼く。片膝をつく。手をつけばジュッと音がしそうに熱された地面。耳にまとわりつく湿った風。汗で服が脇腹に張り付く。腰を浮かし、合図を待つ。蝉の声が遠のいていく。自分の呼吸の音しか聞こえない。まだピストルはならない。両足に力が入る。上半身に血が集まってくる。今にも飛び出してしまいそうになる。腕とお腹の間を風が抜ける。そうだ、この瞬間だ。この瞬間がたまらなく気持ちがいい。ピストルが鳴る。腕の力を抜いて、脚にありったけの力を込める。筋肉がみるみる盛り上がるのがわかる。ごうっと強い風が顔を襲う。俺は負けない。こんな風には負けない。息はしない。さっきしっかり吸った。やるべきことは、ただ死ぬ気でまっすぐ走るだけだから。

 

なんでもない日常に、なんとか耐えている。耐え忍んでいる。計画が大事なことも、先立つものが必要なことも、目的や目標や保証や代替案や時間が要るんだってことも。全部わかってるんだ。そんなことはとっくの昔に知ったんだ。知っているだけで、何もできないまま、気を付けの姿勢で立ち尽くしたまま、何も変えられずにきたんだ。

 

臆病で、卑怯で、小さな自分がいて、ただ走るのが好きだったのに、それだけだったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。