NavyTern’s blog

思考の試行。

時間をつくる

人に見せることにした以上、つまらない愚痴や不安を書いても仕方ない、もっと建設的なことを書かなくてはと思い、なんだか偉そうなタイトルを付けてしまった。

時間が気になるのである。時間とは何なのかが気になるのだ。

そして僕はアホな発想から「あ、確か相対性理論って時間の話だったよな」と、無謀にも相対性理論について書かれた本を買ったこともある。物理はおろか数式さえ把握していない脳みそでは当然理解できる訳もなく、より易しく噛み砕かれた本を探した結果、辿り着いたのは「E=mc2 世界一有名な方程式の伝記」という本だ。

作者は ディヴィッド・ボダニス、伊藤文英、高橋知子、吉田三知世で早川書房から出版されている。方程式を人間に見立てて伝記的に解説されているので、ド文系でも楽しく読める。最後の方で宇宙の話になってしまって、「結局時間は?」と思っていた僕は完全に取り残されていった。

なんだか話が反れた。そう、時間である。
一年経つのあっという間だよね、そうだね、老けたね、お互い様だろ。なんて会話は至る所で行われている訳だが、どうして時間はあっという間なのだろうか?

本のタイトルは忘れてしまったけれど、2つの説を紹介している本があった。
1つは、一年365日を考えるとき、実年齢分の1で考えるというもの。10歳の洟垂れ小学生にしてみれば一年は人生の十分の一。しかし60歳の還暦おめでとうな人からすれば一年は人生の六十分の一という捉え方になる。人生が長ければ長いほど、反比例して一年の感覚は短くなっていく。

2つめの説は、一定の間にどれだけ時間を認識したかの差だという。
例えば、50分間の相対性理論の授業を受ける場合と、50分間のテレビドラマを見る場合を考える。この両方を体験すると、明らかに前者の時間は苦痛で仕方ない。何度も時計を確認し、秒針を見つめながら早く終わってくれと祈りだす。
一方でテレビドラマなどは一瞬だ。「あーやることあったのにぃ」とか言いつつ結局全部見る。すると「あ、もう寝なきゃ!」なんてことになって、やることはいつまでも終わらない。

これを抽象化すると、どれだけ対象に集中したかという話だ。時間を確認し忘れるほどのめり込んでいれば、時計的な時間軸からは外れることになり、普段時間として認識している時計的時間軸と比べると相対的に速く感じるのだ。



僕が言いたいことはここからだ。前置きが長すぎて、もうやめちゃおうか。書くけど。

このあっという間に時間が過ぎるとき、何に集中しているかが大事なのだ。ただ何となし時間が過ぎてしまうことがある。しかも、よくある。上記の理屈から言えば、その状態とは無意識に何かに集中していることとなる。んで、だいたい娯楽。携帯いじってたとか、テレビ見ちゃったとか、友達とくっちゃべってたとか、そんなん。

わが身を振り返れば、かなりタスクが山積しているなかでこの状態にはまっていた。テレビをだらだら見てはもう寝ようの繰り返しだった。そこで脱却を図ることとした。部屋中からノイズを消したのだ。何となくとっておいたものや、もう使わないものを全部捨てた。テレビは押入れに仕舞い、2畳で生活できるレベルまで家具その他一切を視界から排除した。
変わったことは2点。1つ、異常に朝に強くなった。まだ辛い時もあるが、起きられない朝はなくなった。(今までが自堕落過ぎた)
2つ、ストレスが減った。今まで朝が最低だと一日中頭が働かず、ぐだぐだループが続いていた。その状況にいらいらすることも多かった。朝、いいです。

反動として、夕方6時に眠くなる。夜10時、もっと眠くなる。もうピーク。お酒の席では不利かもしれない。


とよくわからないことをつらつら書いてしまった。
時間を認識するということは、時間をつくるということにつながってい…けばいいなぁという持論です。「なんか時間が足りない」と思ったときは、どこに時間を持っていかれているのか再認識する頃合いですね。
やーでもテレビやめただけでこんなに生活が変わるとは思わなかったなー。時間はつくれる。