NavyTern’s blog

思考の試行。

大人になるって

大人になるということはこんなものなのか。

小さいころ、大人になるってことは人間として完成されることなんだと思っていた。そのために20年間があって、人間として完成されているから年長者を敬わなければならなくて、だから親は偉い存在なんだと思った。

でもテレビを観てたら、罪を犯すのはいつも大人で、何かあるとすぐ人のせいにして、責任とか礼儀とか正しさとか、そういうものを綺麗に聞こえる言葉でやり過ごしていた。綺麗に聞こえるだけで、そんなの本当は綺麗なものなんかじゃない。

そのなかでも自分だけはしっかりした人間になろうと思った。真面目に生きて、できる範囲で文武両道を以て鍛えていこうと。学校で教えてもらえる言葉で言えば、一生懸命、道徳的に生きようとしてきた。

でも、色んなところで色んな人に会ったけど、そういうのを目指している人は少なかった。仕方ないとか、まぁいいじゃんとか、柔軟に考えなよとか。たくさんの人がそういうことを言っていると、それが正しく思えてきて、だらだらと一緒に笑っていられればいいなとか、何が普通なのか全然分かってないのに分かっているふりをしたりした。

節目節目で、直前になって、いつも考えてしまう。この選択が合っているのか。でもそういうのは、事後的なものだし、なるようになったで適当な理由とか言い訳とか拵えるものだから、「今納得できているのか」でしか考えられない。
人によっては瑣末な問題かもしれない。つまらない悩みなのかもしれない。誰かがどうだから、自分もそうであるか。そんなことは全く違う。自分で考えなきゃいけないことだ。


スーツ着て、ネクタイの色に悩んで、痴漢の冤罪におびえながら電車乗って、名刺をスマートに出してニコニコしながらありがとうございますって言って、嫌なことがあっても酒を飲んだりテレビ観たりして誤魔化して、夜な夜な友達や同僚の愚痴を聞いたりして、料理の上手な奥さん見つけて、自分と同じような色白の赤ちゃんが生まれて、髪の毛がなくなっていくのを見ないふりして、子供の成長を見守りながら我慢して、頑張って仕事して、定年があって・・・・・・。

それが、自分が思い描いた大人なのか。そういうのに憧れて、そのことばっかり頭から離れなくて頑張って来たのか。それが大人になるってことなのか。

いや、頑張ってなんかない。流されてきただけだ。同じような人間を見る度に、自分の姿を見せつけられているようで堪らなくなって、つい厳しくぶつかって、毎回後で凹んだりして。すげーカッコ悪い。夢を追いかけることができなくなってる。叶わなかったときに辛い思いをするのが厭だから、闘わなくていいように屁理屈ばっかりごねてるだけだ。逃げてるだけだ。
大人は完璧な人間なんだって思ってたとき、そんなこと考えてなかった。やりたいこと、かっこいいと思うものがあれば真っすぐ走ってた。危ない道でも、怪我しても、怒られても、そんで悔しくて泣くことになっても、まず走った。

大人になるってのは、こういうことなのか。物分かりがよくなって、口が達者になって、計算ばっかりして、上手に生きることばかり考えてる。

偉そうにふんぞり返ってる場合じゃない。まぁいいか、って座ってる場合じゃない。

「あのころ」になってしまったあの頃、ご飯のときと、寝てるとき以外はいつも動き回っていた。毎日が新しくて、昨日のことなんて昔過ぎて分からなくて、知らない道を見つけるだけでわくわくしてた。今日はどんなことしよう、明日はどんなことがあるだろうって、行き当たりばったりだったけど楽しくて仕方なかった。

そういう、思わず漏らしちゃうようなわくわく。また、できるはずだ。まだ、できるはずだ。誰かの理想じゃない、自分が思い描くかっこいい大人になればいい。そういうことをできるのが、あの頃に夢見てた大人の姿。