NavyTern’s blog

思考の試行。

「本当の自分」がどうしたって?

ここ最近の記事はきちんと思考することができていない感覚が残るので、前々からまとめようと思っていたネタを出します。

「自分探し」。「本当の私は、今の自分ではない」。
言い方は様々あるが、一度は経験したり、聞いたことがあるように思う。「何か得たい」、「変わりたい」etc...。
僕の周りだけでもウヨウヨしている。みんな何かを探している。その姿は夢遊病のようにさえ見えている。

一種、流行病のような気がする。「自分とは何者なのか」、「なぜ今ここで生きているのか」。理由を知りたくて、過去を遡ってみるけど、これだと思えるものがない。「じゃあ、何故」の繰り返しが続く。理由がないと不安で、どこか落ち着かない。何一つ不自由ない恵まれた環境で生きていることは、頭では理解できている。でもだからこそ、不安の度合いも強くなっていく。曖昧な感情が、曖昧な結果を望んでいるから、どこまで問い詰めても確かなものが一つも出て来ない。


私的結論。
世界中どこを旅しようと、「本当の自分」は待ってなんかいない。どれだけ哲学を深めようと、「真の私」は見つかりはしない。
そうやって不安を払拭できずに苦しんでいる自分こそが、「本当の自分」の姿だからだ。
さらに言えば、「本当の自分」が、今そこで誰にも分かってもらえない苦しみを抱えていることに理由なんかない。
「ただ、いる」。それ以上でも以下でもない。その事実を引き受けるか、目を反らすかは別の問題だ。

「自分が存在する意味が、理由が、ないなんて…」と思うかもしれない。僕なら思う。
しかしだからこそ、ないものは、自分で作るしかないんじゃないだろうか。自分の意味も、価値も、理由も、居場所も、「本当」も。全部自分で作る。一から、自分が納得できるところまで。

僕は流行病だった頃、読書に助けを求めた。晴れの日も雨の日も、一日中椅子に張り付いて何時間でも本を読み耽った。誰かが答えをくれると思っていた。でもそこに答えはなかった。最後に出会った本に書いてあったのは「人生に意味はない」という一文だった。
あると信じていたものが、実は、いつの間にかあると思いこんでいたに過ぎないものであった。この時僕は、この短い一文を受け入れたのだと思う。でも何もないのは厭だ。とは言え、誰かから盗めるものではない。そう考えているとき、自分の手が目に入った。本を閉じて、膝に乗った手。

「空っぽだ」。

その手を見て猛烈に反省した。長い時間、手も動かさずに過ごしてしまったこと、頭や口ばかりで何でもできると思っていたこと、そのことに気がつかなかったこと。「あー俺は今まで何をやってたんだ」と。

そこからは椅子に座っている時間はぐんと減ったように思う。天気が良ければ自転車に跨り、雨が降ればサークルの代表としての仕事に没頭した。バイトもテストもその他一切合財、何でも来いと考えていた。思考が行動を作るんじゃない。行動が思考を作る。これに反論があったとしても、口を開けるのは行動が伴う人間だけだと思う。


世界規模の旅や、瞑想をすることを否定するわけではない。ただ、盲目的に「本当の自分」などと口走る人が、ささくれのように気になるだけだ。
新しいものを見る、知らなかったものに触れる、味わったことのないものに出会う。そういう一々が自分を作っていく。何をしたっていい。世界と直面して、今までの自分をぶっ壊していくこと。壊れたら作り直し続けること。それを繰り返している内に、どこかで『「本当の自分」と信じたかった自分』に出会えるかもしれない。

「本当」なんてわからなくていい。生きてりゃ上等、欲しけりゃ作る。

そんで、何のためにあんたには二本も手がぶら下がってるんだい?