NavyTern’s blog

思考の試行。

先走るもの、現すべきこと

これはテレビやネットから得た情報だから、ある程度マスコミの洗脳が入るのかもしれないけど、なんだか世の中先走る人ばかりだなーと思いました。

どういうことかというと、グーグルとアマゾンが提携解消を匂わせたり、政治家は1カ月ほどで党を解散しちゃうし、東電活断層じゃないもんって言い続けているし、中国・韓国とは相変わらず領土問題で揉めているし。

こういうことの根本にあるのは意外と同じような構造なんじゃないかなと思ったわけです。それが何かと言うと、想いが強すぎて現実がついて来れてないということ。


東電の例が分かりやすいでしょうか。全国の専門家が「危ないかもしれない」と言っている。でも「そんなことないよ」と東電は主張している。専門家たちはきちんと例を示しながら、現実的な話をするわけだけど、東電サイドは反例を示すことができず、「反論意見を補完する論文は見つからなかった」とか言っちゃう。

企業の話をしたって同じことなんだ。別にグーグルやアマゾンといった地球規模の会社じゃなくてもいい。どこの会社とどこの会社が提携して、新サービスや新商品を作りました。でもその内意見が合わなくなって新しいやつ辞めますとか、あそこの会社がすごい商品作ったから、うちはもっとすごい機能がいっぱい入った商品作ろうとか。


すごく自分本位に見えてしまうんだ。
別に偉そうに説教垂れたい訳じゃなく、自分の戒めとしてしっかり覚えておかないといけないなと感じているんです。

新サービスとか新商品は、誰が楽しみにしてるかって、それはお客さんですよね。政治家が一生懸命いいことして、恩恵を与えなくてはいけないのは国民ですよね。「誰々のために!」っていうとすごく偽善者っぽく映るけど、本当に実現すべきものの一つはやっぱり「誰かのため」でなければならないと思います。


その商品は誰のためで、その施策で誰が救われるのかというのが基軸なんじゃないかと。


でもここが難しい。誰かのために何かをやるには、何が必要で何が不必要なのかをちゃんと調べて考えなければいけませんよね。それから、そういうときに「もし、自分が相手の立場だったらどうするか」って考える訳だけど、これを考えるにはすごい想像力が必要だと思うんですよね。

想像力が貧困だと上手くいかない。「自分が、相手だったら」じゃなくて、「自分だったら」で考えてしまう。
自分が一番かわいいのは誰しもそうなんだけど、自分のことをかわいがりつつ相手も喜ばす方法は考えられるんだから、もう一歩、想像力を働かせないとだめなんじゃないかって感じる。

こうやって考えてくると、自分がやることって全部誰かにつながってくるなと思うわけです。ただ本読むにしたって、誰かがその本について感想を聞きたいと思うかもしれない。ただ家から駅まで歩いても、その間にコンビニがあるとか踏切があるとかいう情報を必要とする場面があるかもしれない。

そういうのを意識しながら生活することが、時々は大事ですよね。いつもやってると疲れちゃうから、時々。
飲み屋で愚痴るのは構わないけど、それで誰が救われるのかとか、そういうことばっかり言う人間を相手はどう思うかなとか、ちょっとしたときに思い出さないといけないなと思うわけです。

自分と相手のちょうど中間くらいに「本位」があるといい感じ。