NavyTern’s blog

思考の試行。

男であること、女であること

小学校の時、「人間は生きていくのに男と女とどっちがいいか?」という題で討論をする授業がありました。そのとき僕の班は女性を支持する側になり、結論としては「女は新しい命を生み出せるから男よりもすばらしいんだ」という結論になったと記憶しています。
あれから10年くらい経った今、僕が思うのは「やっぱり女性のがいいよなー」という変な納得。

基本的には、女性の方が男性よりも大変だと思う。大変そうに見えているだけかもしれないけど。特に結婚と出産あたりは一世一代の大勝負のように見える。あくまで、僕からはそう見えているだけです。

でも、その大変さと同じくらい楽しそうだなーとも思うんですよ。よく笑って、よく泣いて、よく怒って、よく頑張る。
忙しい人たちだなーと思うこともあるけど、あれだけクルクルと動き回るにはやっぱり頭いいんだろうなーとかね。

昔むかし、僕がまだ8歳とかそこらで、おかんに「あんた、女は別な生き物だと思いなさいよ!」ってドヤ顔で言われたけど、「えっ、じゃあお母さんって人間じゃないのか…?」って心配になっちゃったよ。大きくなるにつれて「お母さんは人間」ということがわかって、本当に良かった。

何言ってんだろう。本題いこう。

そういうフワフワしたリスペクト的な感情を抱きつつ、最近の?フェミニズムにまつわる色々に違和感を感じている。
確か、社民党だったか福島みずほ氏が「女性のための社会」なるものを標榜して選挙に臨んでたと思います。
男女平等、男女平等ってやつ。でも、いまの日本の動きは平等に向かってないと思う。「打倒、男社会」の方向だ。

満員電車を例に考える。
今までは電車を利用するのが圧倒的に男で、女の子が痴漢被害を受けるから、女性は別にしましょうって専用車両を作った。でも、それも完全に分離した訳ではなく、痴漢はなくならなかった。
今度は冤罪が発生しだした。普通車両で「この人痴漢です!」って言われたら例え冤罪でも、もう取り返しつかないことになるじゃないですか。そりゃあ痴漢する人がもちろん一番悪いんだけど、今度は「痴漢に間違われたくない男性」の層ができ始めた。案外、男性専用車両を作れば女性の痴漢被害は減るんじゃないかとも考えてみたけど、根本解決にはならないなとも思いました。

あー何が言いたかったんだっけ。たとえ話してるうちに忘れてしまった。しかもたとえ話に失敗した。

僕は男女平等を謳う人の話を聞いてると、平等を実現するってそういうことじゃなくない?って思ってしまうんですよ。女性が元気に社会進出だ!ってなるのは一向に構わないのだけれど、今まで男がやってたことをぶんどっても平等にはならなくて、ただ男社会との勝負に勝ったにすぎない。物事の構造レベルの問題。
じゃあどうしたらいいんだいって疑問が浮かんだら次のステップです。

僕が卒業論文で扱ったのは部落差別についてなんだけど、実は色々調べてる内に上で書いたような考えに至った訳なんですよ。

中上健次という作家を知っている人はどれくらいいるだろうか。
彼は自らが部落出身者であることを公表し、自分の周辺に存在する人物をモデルに被差別部落を描いた作品を生み出していった。「岬」や「枯木灘」が一番有名かなー。戦後生まれ初の芥川賞作家として紹介される人です。

彼は作品執筆だけでなくて、講演も積極的に行っていて、その記録もたくさん残っているんだけど、そのなかで「差別は同一性を獲得することでは解決できない」って言ってるんですよ。「差別が解決された瞬間ってのは、ただ差異があるだけのとき」って。

つまり、彼の発言が意図しているのは部落差別に関するものだけど、視点をずらせば女性が男性になろうとしても男女差別は解決できないんだ、とも読めるんですよ。今まで男がやっていたから、今度からは女性も同じことをします!っていうのは、やりたければやればいいじゃないかっていう程度の話に収めないと、闘いになっちゃうんですよ。部落解放同盟の歴史とか結構悲惨だから、そういう方向に行っちゃうと恐いなー。

要するに何が言いたいのか。
女性解放というのは、今まで男がやってて女性ができなかったことをなくそうとしている(男性と同等の権限が欲しい)だけなのか、心からやりたいと思ったことがあってそれを貫こうとしている(今までの制約からは外れるけど「違い」を「違い」として認めてほしい)のか、どこを目指してんだろうなーと思うわけです。

ただこういうことを男が言うのもどうなんだろうなーとか、こういうこと言うとすぐ「男尊女卑だ!」って勝負吹っ掛けてくる人がいて厭だなーとか思ってしまう。
でも、本当の平等ってこういう話を「そだねー」って聞けるようになることだと思うよ。そういう時代まで、あと一歩だと思うんだよなー。